【スナック場末シリーズА枩仞僂澆硫岫

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    JUGEMテーマ:自作小説

    石積みの花


    私は幻を見たのだろうか。
    その漁村に足を踏み入れようと思ったのは、単なる好奇心からだったかもしれない。しかし、運命というものがいわゆる結果論だとすれば、その好奇心さえも、歯車の一つだったと言えるかもしれない。
    誰かに強制されるでもなく、自分の意思で漁村に足を踏み入れた。それはつまり、逃げ出す術を失ったということになる。
    おおよそ、禁忌の蓋は、好奇心によって開かれるのだ。


    その日は十二日の木曜日だった。何か良くないことが起こる前日としては申し分ない。穏やかな波とは裏腹に、男の胸中はざわついていた。
    「今日さ、漁村へ行ってみたんだ」
    濁った目の男が思わせぶりに言った。が、ヒロミは平然としてる。
    「へぇ。で、何かおもしろいものでもあったの?」

    ――ママは知らないのだろうか。

    男は首を傾げた。
    「何もなかったよ――人の気配さえね」
    「どういうこと?」
    「だから、何もなかったんだよ。廃村さ。かつて人が生活していたであろう残滓が、寂しく転がっていただけだ。数年、いや数十年前からそうなのかもしれない」
    そう言って、男は廃屋に積まれていた新聞の日付を思い出す。
    ヒロミは眉をひそめた。男の言わんとすることが想像できたからだ。
    「だって、ほら・・・・・・」
    歯切れの悪い言葉に、男がゆっくりと頷いた。
    「あの子、ノンちゃんだっけ。漁村に住んでるって言ってなかったかい?」
    「住んでるってのは、聞いた話だから。実際に確かめたわけじゃないのよ」
    「漁村には?」
    「行ったことないわね。話は先代のママから聞いたのよ」
    男は腕組みをしたまま、目を閉じ、そのまま黙りこくった。
    考えて見れば、当初からある種の違和感はあった。座敷童子のような格好。つまり、子ども用の着物である。現代でその格好を目にするのは七五三の時くらいだろう。どことなく変った子だとは思ってはいたが、それだけでは説明できない事態となったことは間違いない。
    「でもね、ノンちゃんは悪い子じゃないと思うの」
    「なにもそんな風に思っちゃいないさ」
    「だって、魚、くれるし・・・・・・」
    「え、そこ?」
    男の肘が、カウンターからズレ落ちた。
    「冗談よ。それに、得体が知れないって意味ではアンタの方がよっぽどじゃない」
    「そ、そうかな?」
    男は返す言葉が見つからない。自らの清廉潔白を証明する方法が手近に見当たらなかったのだ。
    「だってアンタ、ここにいる時以外は、どこで何してるのよ」
    男はムキになって答えた。
    「そりゃまぁ、木の洞を転々としてるよ」
    ヒロミの目が点になる。少し考えた後、ヒロミは出来るだけ嫌みっぽく聞こえるように言葉を返した。
    「友だちの家を転々としてるみたいな言い方しないで。もっともらしく聞こえてしまうから」
    「そりゃ失敬。とにかく、なんだか嫌な予感がするんだ。他に何か知っていることは? 何でも良いんだ。例えば、家族の話とか」
    珍しく生気の宿った男の目をジッと見て、ヒロミは肩をすくめた。
    「考えすぎだと思うけどね――」
    ヒロミは、あごに手を添え黙考した。
    「そういえば以前、何かを探してるって言ってたような気もするわね」
    「まさか・・・・・・」
    男は小さく呟いた。
    現代社会に似つかわしくない格好をした少女が、崖の下で探すものとは何だろうか――ましてや、その崖は自殺の名所である。男は、ふと思い出してゾッとする。そういえば、あの子に足はあっただろうか。そこまで考え、すぐに思い直した。足はあった。毎度、ドタバタと大きな音を立てて走り込んでくるではないか。そう思い、ほっと胸をなで下ろした。
    その時、男のこめかみに一筋、汗が流れた。それを見て、ヒロミはある事に気づく。
    「ちょっと待って・・・・・・・・・・・・暑くない?」
    「うん。暑い」
    男は頷いた。
    「そうよね。エアコン、つけ忘れてた」
    ヒロミは小さく下を出して笑うと、レジ台の下にある引き出しを開けた。リモコンはいつもそこにしまってある。
    「あれ? 何かしらコレ・・・・・・」
    引き出しの奥に、見慣れない大学ノートがあった。もっとも、それ自体は特段珍しいことではない。掃除をしている時などに、先代のママが残していった遺物を発見することが、しばしばあったからである。その時ヒロミの目に留まったのは、そのノートからはみ出した、古い新聞紙の切り抜きだった。
    恐らく、それだけでは見過ごしていたかもしれない。しかし、その記事に写る写真に見覚えがあったのだ。
    「ねぇ、この場所って」
    ヒロミはノートを取り出し、記事を丁寧に引き抜くと、それを男に差し出した。
    「これって・・・・・・断崖絶壁?」
    そう言われてみると、似ているような気もする。
    男は思わず、息を呑んだ。
    記事の見出しには、こう書かれていた。

    【一家心中か? 3人を乗せた車が、崖から転落】

    日付の部分は残っていない。が、紙の状態からみて、十年かそれ以上前だろう。文字の一部は、擦れて読めなくなっていた。
    「なぁママ。幽霊に足はあると思うかい?」
    男が唐突に言った。言わんとすることは、ヒロミにも理解できた。しかし、ヒロミはノンのことを疑ったりはしない。
    「そうね。足があるかどうかはわからないけど、少なくとも魚はくれないと思うわよ」
    「――その通りだよ」
    もちろん、男も本気で疑っているわけではない。そういう可能性もあると、そう言いたかっただけだ。漁村に人がいなかったことに関しても、何か別の理由があるのかもしれない。聞き間違いか――それとも、故意に何かを隠しているのか・・・・・・。いずれにせよ、性急な結論は避けるべきだろう。
    男には、もう一つ気がかりなことがあった。あの日の記憶である。崖の上にいたはずが、気が付くとびしょ濡れで店の前に立っていたこと。雨は降っていなかった。あの時、自分に何が起こったのか。
    これは偶然だろうか――偶然、不思議な出来事が連鎖している?
    胸のざわつきが伝播したのだろうか。
    先ほどまで穏やかだった海は、何時しかうねりを増していたのだった。まるで、あふれ出した災いを覆い隠すように。

    ――続

    【スナック場末シリーズΑ曄船好犬半女〜

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      JUGEMテーマ:自作小説

      【スナック場末シリーズΑ

      〜スジと少女〜


      置き去りにされた船が揺れていた。
      岸壁の下には、いろいろなものが流れ着く。波にもまれ、泡と同化したそれらは、いったい何を語るのか。
      生きた証。残留思念。生命の吹きだまり。
      吹きだまりというと、ビルの隙間や路肩を思い浮かべるかもしれない。しかし、海にも吹きだまりはできる。
      流れのある場所には、必ず吹きだまりはできるのだ。では――。
      流れがある、流れがない。とは何だろうか。
      生きている、生きていない、とは何だろうか。
      もう動かないはずなのに、揺れ続ける。それは――。
      忘れないでと、必死で訴えているのかもしれない。

      その日、スナックは珍しく賑やかだった。
      例の座敷童子、いや、のんが来ていたのだ。
      彼女が店に現れただけでは、賑やかと言ってもたかが知れている。
      のんには、変わったくせがあった。磯場に流れ着くものを拾ってくるのだ。つまり、原因は彼女が拾ってきた奇妙な物にあった。

      「何と言っていいものか・・・・・・不気味の一言に尽きるな」
      濁った目の男が言う。男は気味が悪いと、それに触れようとはしなかった。
      「のんちゃん、何でもかんでも拾っちゃだめだよ。磯臭いから」
      ヒロミが困り顔で言った。
      「でも、しっかりと乾かしましたよ? フジツボも取りましたし」
      のんはあっけらかんと言うが、たぶんそういう問題ではない。
        のんが磯場から拾ってきたもの――。
      それは、鏡だった。
      しかも、相当古く見える。戦前――いや、それは言い過ぎだが、少なくとも最近のものではないだろう。不気味なのは、古い鏡だということだけではない――連なっていたのだ。手のひらほどの鏡が五枚。それらは、何本もの紐で互いにしっかりと結ばれていたのだった。
      男は苦々しい顔で言った。
      「普通に考えて、鏡は一枚で十分だろう。つまり、それは鏡としての目的以外に作られたものだと考えるのが自然じゃないか」
      「あら、三面鏡ってのがあるじゃない」
      ヒロミの言葉に、のんは首を捻る。
      ヒロミがそれに気づき、改めて、丁寧に説明した。
      「つまり、対象物を多角的に捉える鏡のことよ」
      「なるほど」
      のんが頷く。
      すると、男は驚いて声を挙げた。
      「え? 今の説明でわかったの?」
      目を丸くする男を無視して、ヒロミが続けた。
      「三面鏡って、正面、右、左の三つよね。そう考えると、あとの二つは何を映し出すためにあるのかしら。後頭部?」
      男はやれやれと肩をすくめた。
      「後頭部を鏡で見る時を想像してみろよ」
      男にそう言われ、試しに、ヒロミはその仕草をしてみた。
      「ああ、そうね。鏡を離さないと見えないわね」
      「そう。その繋がった鏡では、後頭部を見ることはできない。紐を解いて使うとも考えられるけど、それだと結びが頑丈過ぎると思うんだ」
      二人は感心したように頷いた。
      「じゃあ、これは何なんですか? 何だって言うんですか?」
      拾ってきた張本人であるのんが、投げやり気味に聞いた。
      「さっき、ママが言ったこと、あながち外れてない気がするんだ」
      ヒロミは記憶を辿る。
      「・・・・・・磯臭い・・・・・・?」
      「そこじゃない」
      男が間髪入れず言うと、のんがケラケラと笑った。
      「――後の二つは何を映し出すってところさ」
      「後頭部、じゃないわけよね?」
      男は重く頷いた。答えを口に出したくないようにも見える。
      「例えば、その五つに別の意味があったとしたら・・・・・・つまり、そもそもそれが、人を映すためにあるんじゃなくて、もっと別の、そう、例えば霊的なものを映すものだったとしたら・・・・・・」
      ヒロミの表情が急に険しくなる。一方、のんは平然としている。その意味がくみ取れなかったようだ。
      「おまじないに使うものってこと?」
      ヒロミがあえて『おまじない』という言葉を使った気持ちが、男にもわかった。
      誰だって、『呪い』なんて言葉は使いたくない。
      「昔から、鏡には不思議な力があると信じられてきたんだ。三種の神器の一つが鏡であるようにね」
      「八(や)尺(た)の鏡(かがみ)ってやつね」
      ヒロミの言葉に男が目を見開いた。
      「よ、よく知ってるね」
      すると、のんが口を開いた。
      「あと、八(や)尺(さか)の勾(まが)玉(たま)ですよね」
      男はいよいよ、開いた口が塞がらない。
      「いやいや、君まで、なんで知ってるんだよ。君らは博識なのか?」
      「あと一つ、何でしたっけ――」
      首を捻るのんを見て、ヒロミが「あっ」と声を挙げた。
      「くさなぎのつよしじゃない?」
      すかさず、のんが反論する。
      「よこやまのけんですよ」
      「そうそう、そんな奴だったはず」
      ヒロミは頷いたが、そもそも神器は人ではない。
      男が不機嫌そうに言った。
      「草(くさ)薙(なぎ)の剣(つるぎ)だよ」
      「そうだ、そうだ」
      二人は、キャッキャッとはしゃいで、ハイタッチをする。
      「君らは、緊張感というものを、母親の中に忘れてきたようだな」
      男はやれやれと、肩をすくめる。
      ヒロミは何事もなかったかのように、煙草をふかした。
      「それで、残り二つの鏡が何を映すっていうのよ?」
      「例えば、三つが現在だとすれば、後の二つは過去と未来とも考えられる」
      ヒロミの口から白い煙が吐き出される。煙は、モヤモヤと中空に漂ったままなかなか消えなかった。
      「その鏡が占いの道具だとしたら、その可能性はあるわね」
      ヒロミは鏡を手にとり、男の方へと向けた。
      「どう? 何か見える?」
      「や、やめてくれよ。見えない方が良いんだから」
      男は体を仰け反らし、鏡から目を遠ざけた。その時――。
      鏡の向こうで、何かが横切ったように見えた。意思に反し、目はそれを追ってしまう。男の背後には窓しかない。もし、何かが映り込んだのだとしたら、窓の外に何かがいたことになる。
      「え? 今、何か――」
      次の瞬間、勢いよくスナックの扉が開かれた。
      驚いて、男は椅子から転げ落ちる。見上げると――。
      皺だらけの顔、二つに束ねられた、長い白髪。
      そこにいたのは、紛うことなき、ツインテールババァだった。
      「それ、どこで拾ったんだい」
      ツインテールババァが血相を変えて言う。
      ヒロミは、平然と答えた。
      「のんちゃんが拾ってきたの」
      のんは、悪びれずに言う。
      「フジツボは取りましたよ」
      すると、ツインテールババァは血相を戻して言った。
      「そうかい。なら良いんだけどね」
      男には、何が良いのか、さっぱりわからなかった。フジツボの部分だろうか。
      「ママ、これが何か知ってるの?」
      ヒロミが尋ねる。
      「それは、アタイが考案したカラス避けだよ。カラスどもが崖に集まってくると面倒だろう」
      「そんな事だろうと思った」
      ヒロミがクスクスと笑った。
      男は胸をなで下ろして言う。
      「なんだ、検討がついていたのか?」
      「まぁね。この辺りで起こる不可解なことには、だいたいママが関係しているのよ」
      諸悪の根源――そう思ったが、男は口に出さなかった。
      「諸悪の根源ですね」
      のんが言った。言ってしまったというべきか。
      「難しい言葉を知ってるね、将来、学者さんになれるよ」
      ツインテールババァは、子供には優しかった。
      「将来、ですか・・・・・・」
      のんはそう言って、中空に目線を漂わせた。
      「ところで、カラス避けがなんで海に落ちてたの?」
      ヒロミが素朴な疑問を口にした。
      「ああ・・・・・・アタイ考案したものだからね、とりあえず特許庁に出願したんだけど、却下になったから海に投げ捨てたんだよ」

      全員が黙りこくった。
      店内には、波の音だけが響く。
      ヒロミの吐いた白い煙のスジが『何も投げ捨てることはないだろう』という文字を、静かに象っていた。

       

      【スナック場末シリーズァ曄禅村とスジ〜

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        【スナック場末シリーズァ曄禅村とスジ〜


        断崖絶壁に立った。
        不思議なもので、いざとなると急に冷静になる。自分が何故、そこにいるのかさえわからなくなるのだ。いや、自分が辿ってきた道すら、思い出せなくなる。いったい、自分は何が気にくわなかったのだろうか。冷静になってはいけない、そういう気がする。
        死は一度しか体験できないが、想うことは何度でもできる。それはなんらおかしな事ではない――死は、いつだって生の隣に寄り添っているのだから。
        では、それを分かつのは一体何なのだろうか。
        ぼうっと考えていると、波と風が、全てをかき消してくれる。
        何もなくなったとき、ふと思うのだ。「ああ、腹が減ったな」と。
        つまりは、それでいいのだ。

        スナックは静かだった。いつものように客は、目の濁った男だけ。
        ヒロミは片膝を立て、足の爪を切っていた。営業中にだ。
        ロングスカートから伸びた脚は白く、時折、すねとふくらはぎの間に細くスジが浮き出る。昔、スポーツをしていたのかもしれない、などと、男はそれを凝視しながら考えていた。

        「スジと言えば、俺が始めてここへきた時に食べたのが、牛すじの煮込みだったな」
        男の言葉に、ヒロミは怪訝そうな顔をする。
        「スジと言えばって、今そんな会話してなかったわよ。っていうか、一言もしゃべってなかったけど」
        爪切りが、パチリと鳴る。
        「ああ、つまりアレだよ。物事には必ず、スジがあるんだ」
        「スジ?」
        「そう。世界の端については話したっけ?」
        「いいえ。聞いてないわ」
        少し興味が湧いたのか、ヒロミは爪切りを終えようとした。
        「ああ、そのままで聞いてくれて構わない」
        もちろん、男がそう言ったのは、脚が見たかったからに他ならない。
        「世界の中心って、どこだと思う?」
        「さぁ。ヘキサゴンじゃない?」
        「ペンタゴンな。まぁ、そういう考え方もあるが、端的に言えば、結局は自分だと思うんだ」
        「自己中ってこと?」
        「自己中って言葉は考え方の種類として使われているけど、見方という意味で言えば、自己中で当然なんだ。まぁ、自分の主観が冷蔵庫だったら、それはそれで凄いだろうけど」
        男は冷蔵庫をアゴで指した。
        「何? 何か飲むの?」
        ヒロミが、爪を切る手を止めてしまった。
        「いや、そのままで聞いてくれ。その方が何かと都合が良いんだ」
        男は、悟られぬよう、適当に言い繕った。
        「何よ、都合って」
        男は意味ありげに頷き、言葉を続けた。
        「世界の中心が自分だとして、じゃあ世界の端はどこか――」
        「隣人ってとこかしら」
        「そう。しかし隣人もまた、世界の中心は自分だと考えているわけだ。そうなると、メビウスの輪のように永久に続くことになる」
        「じゃあ、世界には中心も端もないってこと?」
        「いや、それは見方なんだ。輪にしてしまうと見えないことが、線にすると見えるってこともある。線、つまり命や時間さ」
        「切ってしまえば、端ができる、と」
        「あの断崖絶壁に立ったとき、そう思ったんだ。あの場所は、まさに世界の端だった。じゃあ、端までいくと何が見えるか――」
        爪切りが、重くパチリと鳴った。
        「過去でしょ?」
        ヒロミの言葉に、男は目をぱちくりさせる。すぐに、ああそうかと気づいた。ヒロミもまた、あの断崖絶壁に立ったことのある人間なのだ。
        「過去。いきさつ。道程。つまりはスジさ。どんなことにもスジがある。でも――」
        「でも?」
        「スジがないんだ」
        ヒロミは小さく首をひねる。
        「俺は、ここへ入った時の記憶がない。いや、正確にはその直前の記憶だ」
        「アタシは覚えているわよ。アンタ、びしょ濡れだったし。腐るかと思ったもん、床板」
        「それは覚えてる。思ったっていうか、ママ、それ口に出して言ったよ。その時」
        「あらそ」
        ヒロミはクスクスと笑う。少女のように。
        「そう。何故あの時、俺がびしょ濡れだったのか――。断崖絶壁に立ったことは覚えてるんだ。そこで、何かを見た。いや、それは気のせいかもしれない。ただ気が付くと、ここの扉をくぐっていた」
        「雨は、降ってなかったわね」
        「だとしたら、俺は海に落ちたことになる。あの断崖絶壁から落ちて、何故俺は生きているんだ?」
        ヒロミは肩をすくめて見せた。
        「運が良かったのね」
        「運か・・・・・・それだけで片付けられないような気がしてね。それからだ、石を積むようになったのは。毎日行けば、些細な変化にも気づくことができるかもしれない。そう思ったのさ」
        「それで、何かわかったの?」
        「いや、全然。それに、意味があるとしても、それがわかるのは、後で振り返っての話だよ」
        爪切りが軽くパチリと鳴った。小指の爪を切ったのだろう。
        「ちなみにあの日、出したのは『牛抜き煮込み』って言って、牛すじは入ってなかったのよ。アタシが考案したの」
        男はククと肩を震わせた。
        「どうりで、いくら探してもないはずだ」
        ヒロミは膝を下ろし、スカートを戻す。手を払い、冷蔵庫を開けた。
        「偶然にも、今日は牛すじがあるのよね。これも結果論かしら?」
        「いや、それがわかるのは、食べた後だよ」
        「あっそ」
        男は小さく笑い、薄めのカルーアミルクを注文する。ヒロミは、ほとんどミルクのそれを差し出す。男は「ママ、これ濃いよ」と、いつものように言う。そういう夜だった。
         

        【スナック場末シリーズ】コンセプトイメージ

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          断崖絶壁 少女

          立たせるだけで、物憂げに見える。それが断崖絶壁。

          【スナック場末シリーズぁ曄禅蔽稘垢筏村〜

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            JUGEMテーマ:自作小説

            【スナック場末シリーズぁ
            〜喫茶店と漁村〜

             
            細い路地は、葉脈のように広がりながら、海沿いまで続いている。その横を走る水路からは、もうもうと湯気が立っていた。温泉が湧いているのだ。
            静まりかえった路地を抜けると、やがて、寂れた漁村に出る。崩れかけた土壁、錆びた車、脚のない椅子……。おおよそ人が住んでいるようには見えない。いつの間にか、辺りは橙に包まれていた。
            夕日は、ただ静かに露呈する。日没と共に消えてしまいそうな、その儚さを。

            スナックの店内は静かだった。
            客は、くたびれた男一人だけ。
            ヒロミは、醤油差しの蓋をはめる溝を、爪楊枝で丁寧に掃除していた。それがヒロミの日課だった――わけではない。単に暇だったのだ。
            男は先ほどから、そわそわと窓の外に目をやっては、何度も首を傾ている。そうしてしばらく考えた後、男はようやく口を開いた。

            「ねぇママ、さっきからそこに立っている女の子は・・・・・・つまりその、目の錯覚かな? 僕はまだ一口も酒を飲んでないんだけど。もし霊的なものなら、僕は今すぐ霊媒師のところへ行って、それ相応の対処をしてもらわないといけないことになるんだけど」
            男に言われ、ヒロミは窓の外に目を向けた。
            途端に顔がほころびる。
            「あら、のんちゃん。入ってらっしゃいよ」
            少女に向かって手招きをするヒロミを見て、男はほっと胸をなで下ろした。男は、今まで霊感といった類いのものを感じたことはなかったが、あるいはこの場所ならあり得るかも知れないと、微かににそう思っていたからだった。
            「知り合いかい?」
            「ええ。時々遊びにくるのよ」
            小さな影がタタッと走り、入り口のドアがゆっくりと開かれた。
            「こんばんは」
            少女は礼儀正しく、ペコリと頭を下げた。
            「こんばんは」         
            つられて、ヒロミも深々と頭を下げる。
            男は、小さくあごで挨拶した。
            「のんちゃんっていってね、いつも魚を届けてくれるの」
            のんちゃんと呼ばれた少女は、手に白いビニール袋を提げていた。 時折、その中で黒い影が身をよじる。恐らくカサゴだろうと、男は思った。カサゴはその外見とは裏腹に、クセのない白身魚で非常に上品な味をもつ。唐揚や吸い物、塩焼から煮付けまで、様々な調理方法に対応する万能選手だ。そんなカサゴに、男は少し嫉妬した。

            「なるほど、はじめまして」
            男は、少女を怖がらせないようにと、できるだけ優しく言った。
            すると、少女はしばらく男を黙って見つめた後、男にも聞こえるギリギリの声量で、わざとらしくヒロミに耳打ちしたのだった。
            「この人、大丈夫? お金持ってなさそうだけど」
            不意を突かれ、男は目を丸くする。
            ヒロミは、ちらりと男を見やってから、いたずらっぽく少女に耳打ちを返した。
            「大丈夫よ。お金は持ってないけど」
            男は椅子から崩れ落ちそうになるのをなんとか堪え、精一杯の虚勢を張った。
            「しゅ、出世払いという銘柄に投資していると考えてもらいたいね」
            「出世も何も、あんた、無職でしょ」
            「石積みのライフワークはあるんだけどね」
            「あっそ」
            ヒロミがお手上げの身振りをして見せると、それが可笑しかったのか、少女はケラケラと笑ったのだった。
            少女の名前は《篠原のん》といった。漁村の、数少い子供の一人だ。遊び場は断崖絶壁の下にある磯場で、釣りをした後、しばしばヒロミの元を訪れては、獲れた魚や貝を分けてくれるのだった。

            男は、先ほどの仕返しとばかりに、少し意地悪く言った。
            「それにしても驚いた。最初見た時は、座敷童子かと思ったよ」
            男の思惑とは裏腹に、のんは興味深そうに頷いた。その言葉を初めて聞いたのだろう。
            「ほうほう。座敷荒らしとは、なんとも迷惑そうな奴ですね。車上荒らしの親戚か何かですか」
            カウンターの向こうでヒロミが吹き出した。
            「のんちゃん、座敷童子は迷惑じゃないのよ。むしろラッキーなんだから。雑草で言えば、四つ葉のクローバーみたいなものよ」
            しかし、のんは首をひねるばかりだった。もっとも、その説明では無理もないだろうが。
            ひねった首を戻すと、のんは思い出したように言った。
            「それより、ヒロミちゃん、魚。早く捌かないと、死んだ目の魚になるよ」
            「あ、そうだね。ありがとう」
            「じゃ、帰るね」
            のんは、現れた時と同じように、タタッと軽い足音で立ち去った。
            「あ、お礼に仁丹をあげ――」
            ヒロミは慌てて言ったが、のんの姿はもう、そこにはなかった。
            先ほどまで暴れていたビニール袋は、すっかりおとなしくなっている。
            男は、死んだカサゴを見て、死んだ魚の目で呟いた。
            「魚も大変だなぁ」
            ヒロミは、丁寧に鱗を取ってから、それをまな板の上に乗せ、手際よく三枚に下ろしていく。
            男はカウンター越しに、ヒロミの指先をねぶるように見つめていた。
            「へぇ、以外だね。牛も殺さないような顔して」
            「――虫ね」
            ヒロミは顔を上げずに返した。
            しばしの沈黙。
            店内には、波の音が静かに響く。
            打ち寄せた波が引いていく、それくらいの短い時間だった。
            「今のは、スルーするべきだったね」
            「なんでよ」
            「虫だけに」
            「くだらないわよ」
            グラスの中で、からりと氷が転ぶ。
            「さっきの子、のんちゃんって言ったっけ?」
            男は、ヒロミの指先を見つめたまま静かに言った。
            「ええ」
            「あの子には幸せになって欲しいな」
            「そうね。あんたが心配することではないけど」
            「良いだろう。それくらい」
            「――そうね」
            小さな笑みを浮かべ、ヒロミはゆっくりと頷いた。
            幸せというものが、境界線の向こう側にあるのか、こちら側にあるのか、ヒロミにはわからなかった。いや、そもそも幸せというものが何なのか、それすらわからなかった。男に言わせれば、幸せかどうだったか、つまり結果論に過ぎないのかもしれない。しかし、それを知ることができるのは、境界線の向こうに行った者だけなのだろう。だとすれば――だとすれば今はただ、美味いカサゴに舌鼓を打つのも悪くないと、そう思ったのだった。
             


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